総院長 中村 淳 インタビュー
医療の梁山泊を実現し、トップを走り続けます


心臓血管センター長

心臓に限らず全身に守備範囲を広げています
僕は1999年に循環器科部長として当院に着任しました。新東京病院の創設者である平野勉先生と、その頃当院にいた上皇さまの冠動脈バイパス手術を執刀した順天堂大学医学部附属順天堂医院院長の天野篤先生にお誘いを受けたのがきっかけです。
平野先生は僕に「梁山泊をつくりたい」とおっしゃいました。梁山泊とは中国の乱世の時代に世を憂いた豪傑108人が集まり、立てこもった場所のこと。優秀な医師を新東京病院に集め、医療の梁山泊をつくろうとしたわけです。平野先生は優秀な医師がいると聞けば、自らそこへ出向いては口説き落としていました。僕が着任した時、すでに五十数人を集めていました。僕が院長になった6年前は70人くらいでしたが、平野先生の思いを受け継ぎ、僕も日本中から優れた医師を集め続けました。心臓疾患の患者さんの多くに合併症があるので、近年はがんや糖尿病なども診ることができるように診療科を充実させました。
その結果、当院には現在、梁山泊に集まったとされる人数と同じ108人がそろっています。精鋭たちは高い志と夢を持ち、各診療科で日本でもトップレベルの活躍をしています。
祖母の死が進路を決めるきっかけに
僕は熊本で生まれ育ちました。高校2年生の時、僕をとてもかわいがってくれた祖母が急に亡くなりました。胸が張り裂けそうなくらい悲しくて1カ月ほど悶々としていましたが、これがきっかけで急遽、進学先を医学部に変えました。大切な人を失った深い悲しみは、今でも変わることなく胸に残っています。ですから、治療においてはあらゆる手を尽くそうと思いますし、絶対に妥協はしないと決めています。

心臓内科の道を決定付けたバドミントンの腕前
高校卒業後、大分医科大学(現・大分大学医学部)に進み、バドミントン部に所属しました。成績は九州全体でもトップクラスで、県大会で優勝すると、新聞に写真付きで大きく取り上げられました。本人以上に教授が喜んでくれて、大事な臨床修練の日程がバドミントンの遠征と重なると、遠征を優先するように指導されたほどです。スポーツの大会で優勝する医学生は少なかったので、教授も嬉しかったのでしょう。僕をとてもかわいがってくれました。その頃、医学部の耳鼻科にはテニスの全日本チャンピオンと競い合っていた人がいて、この人も僕に目を掛けてくれました。喉が弱かった僕は試合前に発熱して耳鼻科のお世話になっていたこともあり、耳鼻科を専門にしようと思っていました。そのことをバドミントン部の顧問の先生に報告したところ猛反対され、「お前は絶対に心臓をやる人間だ」と言われて結局、顧問の先生と同じ心臓の道に進むことになりました。
黎明期に心臓カテーテル技術を学ぶ
それからは心臓病一筋に約7年、研究し続けました。まさに純粋培養で育てられたわけです。さすがに先生からはカテーテル治療の経験もした方がいいと言われ、その後は福岡の病院に行きました。そこには当時黎明期だった心臓カテーテル治療で日本のトップを走る先生がいらしたからです。そこで磨いたカテーテル技術を持って、今度は仲間と共に沖縄に行き、大学や公立病院で心臓カテーテル治療の指導をしました。僕よりもかなり年上の先生の指導をしたり、患者さんの治療をしたりしましたが、当時35歳の生意気な僕をとても沖縄の先生や患者さんが温かく受け入れてくれました。医者になって初めて画一的な仕事をしたのが沖縄だったように思います。今でも交流が続いていますが、その時の先生や患者さんたちはたくさんのことを気付かせてくれて、未熟だった僕を救ってくれたと思っています。沖縄では患者さんのそばにいる、寄り添う大切さを感じ、それは僕の理想になっています。

医師として、病院としての「使命」の追究
僕は心臓の病気で「この患者さんは難しい」という言葉を新東京病院内では禁句にしています。「難しい」は自分の中にある弱さを表す言葉で、自分が足りないから発してしまうのです。患者さんのために、全ての手を尽くした上で生還させるのが、僕らの仕事なのです。
患者さんを救うことはもちろんですが、病院には「続く」「生き残る」という使命があります。患者さんを救って診療実績を出すことだけが病院の使命ではなく、いろいろな足跡を残す病院でなければ続きません。ですから、当院は年間30本を超える英語論文を発表したり、留学生を送り出したり、反対に外国人医師留学生を受け入れたり、民間企業の橋渡しで2カ月に1回、日本中の医師30人を集めた教育プログラムを実施したりしています。僕自身もたびたび海外でカテーテル治療の技術を指導するなど、世界の医学向上のためにさまざまな取り組みをしています。
一生懸命な人は僕らが手取り足取り教えなくても、チャンスを与えたら確実に実力をつけてきます。僕を超える医師をどれだけ育てられるかが目標ですが、すでに僕より明らかに優れている医師が育っているので嬉しく思っています。
さらなる高みを目指して挑み続けます
現在、新東京病院にはベッド数が400床ありますが、この地域の患者さん全てを救うところには達していません。そのため、隣に3階建てのビルを建設中ですが、これと同規模のビルをもう1棟建てて600床にして、研究などもできるセンターにする計画を立てています。5年以内に完成させて、まだやり残している心臓疾患に加え、がんや糖尿病など全てに対応できるセンターにしたいと思っています。
院長として現状に満足することなく、さらなる高みを目指すための環境を整えていく役割を今後も果たしていきます。
